nurembergの日記

妊娠出産諸々の記録

復帰前夜

 
こどもがかわいくてしょうがない。
やわらかい髪、つるつるの肌、笑顔、寝顔、困り顔、泣き顔。
何か伝えようとして出す声。たまらなくいとおしい。
 
夜中授乳で起きたこどもが、いつもはお腹がいっぱいになればすぐに寝るのに
急に寝なくなってしまった。
布団に置くたび泣き出すこどもを膝に抱き上げ、何度目か分らない授乳をしようとしたとき。
授乳途中でこどもが寝てしまいそうなとき、産院で教えてもらったように、
赤ちゃんの足の裏をぎゅっと押して起こして、続きを飲ませるのだが
眠気で朦朧とする中、しんどい、今度こそ寝てくれ、しっかり飲んでくれよ、と
意地悪な気持ちで足を強めにおした。
 
真っ暗な部屋の中でもわかった、
その時驚いて私を見上げたこどもの顔が忘れられない。
あんな顔二度と見たくない。思い出すだけで胸がつぶれそうになる。
そして心配になった。いつか、この子を躾と称して叩く日が来るのだろうか。
こんな弱くて小さくていとおしいものを。
 
 
自分は体罰当たり前の家庭で育ち、
悪いことをすれば手が飛ぶ中でしつけられた。
それが抑止力になって悪事を控えた記憶がある。
一方で、それが弟への暴力や、同級生への暴力になったのではないかと思っている。
元々の気質で結局暴力的になっていた可能性はあるのかもしれないけど。
 
「亭主関白」の父親の暴力(本人は真面目にしつけのつもり。
酔っぱらって、とか血が出たりケガするほどの暴力を受けたことは一度もない。)
や怒鳴り声に心底怯え、心を冷たくして「もっと強くならなければ、感情を押し殺さなければ、悔しい」
とずっと考えていた。
一番嫌だったのは、母親にそれが向いた時。
「どうして家族なのにそんな物の言い方をするんだろう」、と涙がでた。
寝てから、リビングから漏れ聞こえるこもった怒鳴り声になんども涙を流した。
どうしてうちの父親はああなんだろう。と。
 
そうするうち、家では笑ったり話したりしなくなった。
必要以上に会話はしないし、なるべく無表情でいるようになった。
記憶は曖昧になってきているけど、一方で家族でよく出かけたりはしてた。
ずっと無表情でいたわけではなく、完全に拒絶というところまで徹底できなかった。
それで父親の機嫌を損ねる方が恐ろしかったから。
 
そんなだから、父親を憎みそうなものだが
私は、中学生に上がるころから「母の様になりたくない」と思い始めた。
父は自立し好きなことをやっている、理論的に話し考えている、それに比べ母は自分がない
私はそういう風にはなりたくない。色々なことを知っていて、自分の考えが一貫しているように見えた
父に自分の考えを重ね、大きく影響を受けるようになった。車、タバコ、音楽。
奴隷が強いものに従うような心理なのかな。
 
いい大学に行って、いい会社に就職して、最初の結婚をして、
私は優しい夫にかつての父の様にふるまい、当たり前のように離婚されて初めて、
 
やっぱりそうだよね 偉いのはこんな仕打ちに耐え、こどもに優しくしてくれた母だったんだな
 
と我に返った。
恐ろしいことに、怒鳴り声も叩かれることもあんなに嫌だったはずなのに、
どこでそうなったのか、結婚生活の中で自分は
このくらい強く言ったり叩いて伝えたりしないと、気持ちが伝わらないのでは
と自分を正当化していた。
 
高校生になって、だいぶおさまったけど(それでも何度か、友達を殴った)
小学生から中学生くらいの自分は、とても乱暴なこどもだった。
勉強もよくでき、スポーツもでき、暴力をふるう。それが強くあることだと信じていた。
学校で一番強いものになりたかった。
ああ、こいつ親に日常的に叩かれてるんだな、
と先生達には丸わかりだったろうか。今思えばむちゃくちゃ恥ずかしい。
 
転職し、教育に関わる仕事をするにあたり、行動分析学に触れる機会があり、
その通りだと思った。
社会での生活を学ぶ場で、なんでほとんどの人は社会で使わない体罰なんてものがあるのか。
 
翻って、家庭ではどうなのか。
特に、就学前の幼児期、児童期。
 
再婚したとても優しい夫に、私はもう怒鳴らないしましてや暴力は振るわないけど
できれば、こどもにも同じようにしたい。大切にしてあげたい。
虐待ほどの話ではないが、こどもの頃の私は、父親に対して心から萎縮していた。
心理的虐待だったなと思う。それを連鎖させたくない。
日本もこどもをたたくことは法律で禁止にすればいいのに。
 
強化で行動を矯正して行くことに、絶対限界はあるんだと思う、
その時どうするのか。
命にかかわるような危険な場面で叱る必要があることもあるだろう。
その時どうするのか。
 
みんな、叩いてるの?
 
そんなことが気になる、育休明け前夜。